由緒
当社の創立年月日は不詳でありますが第十二代景行天皇の御世に勧請奉斎したものであると伝えられております。元禄四年、美作の国主森長成公によって編纂された『作陽誌』に載せられたものが最も古い記録と推察され、同誌によると「在二下打穴西村一號二柴下八頭大明神一下打穴西村氏神也 祭日九月十七日」云々とあり、「正保四年下打穴村を分ちて西村 中村 下村と為す」とあります。正保四年とは今より370年余り前のことになります。そのほか『美作郡郷考 美作古社六十六社記』には「榊葉八頭大明神 久米北條郡下打穴西村に座す」とあり、古くは柴下八頭大明神と云い、その後に榊葉八頭大明神と称えたようであります。
美作国神社資料より抜粋
御祭神
天兒屋根命・須佐之男命・大地主神・菅原神
信仰を集めた氏神
往古は特に祭典など盛んであり充実完備していたものと想像され、神田、禰宜田、菰敷田、朔日田等の字名が存在していたことからも推察されます。また、鎌倉田という地名もあった様で、この鎌倉田はその昔、源家が鎌倉に幕府を塁いていた時代にこの地方の守護のために当社へ寄進したものと思われます。また神代という地字がありますのも昔、神領の地、即ち神社の領有していた土地と思われます。そのほか、油免、祝詞田等も同様神田若しくは神領の地であったと思われます。
様々な崇敬者
天暦年間(947〜957年)左大臣藤原師輔公の宿願によって崇敬されたと伝えられています。今地字に王子田あるいは王子山というのもこれ故であります。また、文明年間(1469〜1486年)打穴の郷士吉川左衛門尉廣家氏、天正年間(1573〜1593年)領主原田三河守貞佐氏崇敬によって本殿の御造営が行われました。元禄元年(1688年)には美作国主森公より金品の寄進があり、慶應年間(1865〜1868年)には旧濱田藩主松平右近将監氏の祈願所として殊の外崇敬厚く当時の神主は不時目通りを差許されていたほどであります。
藤原師輔(菊池容斎『前賢故実』より)
御祭神と十六の末社
当社の御祭神は天之児屋根命であり、そのほか十六の末社がありましたが明治四十三年本社へ合祀いたしました。この十六末社と申すのは、1)天之手力男命をお祀りした十六山神社、2)八重事代主命をお祀りした葛城神社、3)火己貴命をお祀りした王子社、4)誉田別命をお祀りした重信八幡社、5)素戔嗚命を奉斎した天王社、6)菅原之大神を奉斎した天満宮、7)正哉吾勝々速火天之忍穂耳命を奉斎した山王宮、8)大山祇命を奉斎した岡神社、9)天目一筒命を奉斎した鍛治谷森神社、10)五百筒磐命を奉斎した明星神社、11)和氣雷命豊玉姫命を奉斎した八龍神社、12)八意思兼命を奉斎した時尾神社、13)天目御中主命を奉斎した行實神社、14)猿田彦命を奉斎した塩屋神社、15)国底立命を奉斎した地神社、16)天目御中主命を奉斎した大空神社であります。
桃太郎伝説と榊葉神社
昭和3年(1928年)発行の『三保村誌』に掲載のある「桃太郎伝説」は文献として残っているものとしては日本で最初のものであり、「元祖」とも言えます。当社においても桃太郎にまつわる伝説が伝わっており、天児屋根命を奉斎し各所所々に十六末社を鎮祭した所以は元禄八年(1695年)八月神主伊豆守長昌の所記に、
「打穴と申す処大野原ありて悪鬼住み依て天之児屋根神天降り給ふ其所を天神山と申すなり又十六神降り集り給ふ所十六山と云ふなり 此の神々人のかたちに化して鬼を責めたたかひ給ふて遂に退治給ふなり これによりてこの神を勧請したてまつると申す伝えあり 依て天神山 鬼山 勝負﨏 退治山この古名あるなり」
これが榊葉神社及び十六末社の言い伝えであり、この地域には桃太郎伝説にまつわる地名が現在でも数多く残っています。
主な祭典
歳旦祭 :1月1日
祈年祭(春祭り):4月20日
夏越祭(夏祭り):7月31日 (茅の輪神事有り)
例大祭(秋祭り):10月第2月曜日の前日 (浦安の舞・獅子舞の奉納有り)
新嘗祭・七五三祭:11月23日
年越祭 :12月31日
例大祭(秋祭り)